「蛇とか蛙とか、昆虫でないのに虫偏がついている字がたくさんある。虫は昆虫のことだから、それはおかしい。昔の人は無知だから、昆虫と蛇などと、区別がつかなかったのだろう」などと言う人がいる。大きな間違いである。虫という字は、もともと昆虫を表したものではなかったのだ。
今に伝わる最古の漢字である甲骨文(占いのために亀の甲羅や鹿の骨に刻まれた文字。BC13世紀ごろに登場)や金文(殷・周の青銅器に鋳込まれた文字)にも、虫という字は存在する。
字を見ればお分かりと思うが、これは蛇の象形である。中国最古の字書とされる「説文解字」(漢代、100年)ではマムシであるとされている。古代中国では、蛇を使った呪術が横行し、蛇はたたりの象徴と考えられていた。したがって、たたりがないか、呪詛されていないかなどを占うために、上の字形やこれに似たものが甲骨文の占いの言葉(卜辞)にしばしば登場する。
さらに言うと、「虫」の本来の発音は「キ」であり、「チュウ」ではない。つまり、虫の字はもともと、形は現代の虫と同じだが、音も意味も違う別の字だったのである。
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「蟲」小篆 |
なぜそんなややこしいことになったか。
ご存知とは思うが、日本でも、昔(といっても戦前まで)、「むし」は「蟲」と書いた。この字は甲骨文にはないが、中国の戦国時代(BC5~3世紀)のものは伝わっている。音は「チュウ」。時代は下るが、「集韻」という辞書(宋代、1039年)には、「裸毛羽鱗介之總稱」と説明されている。裸蟲、毛蟲、羽蟲、うろこのある蟲(爬虫類か)、介(よろい)を持った蟲(甲殻類か)などをひっくるめて「蟲」というという意味である。蟲の字が、昆虫を含めて多種類の小動物を表していたことが分かる。この字の音と意味とが、現代の虫の字につながるのである。
つまり、往時は、虫(キ)と蟲(チュウ)が別の字として存在していた。この状況で、個別の小動物を表す字が多く作られ、それらの字には小動物であることを示す印として、「虫」が付けられた。蟲を偏として付けるには、画数やスペースの問題があって、虫に省略されたのであろう。これが虫偏の由来である。
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「蛇」小篆。旁のも蛇の象形という(「字統」)。 |
蟲が虫三つで成り立っているのをみると、むしを表す字を作るにあたって、ヘビみたいな小動物がごちゃごちゃと集まっているイメージがあったのだろうと思う。しかし、あくまで別の字として作られたわけだから、別の意味を持つ字として使われるべきものであったはずだ。
ところが、その後の時の流れの中で、蟲と書くべき場合でも、虫と略されることが増えてきた。「蛇」や「蝮」という字も作られ、また「虫(キ)の呪術」も使われなくなったため、虫と蟲を区別する必要がなくなってきたこともあるのであろう。そのうちに混同が始まった。先ほど引用した説文解字に早くも混乱が見られる。「虫」はマムシであると言っておきながら、後段では、「物之微細、或行或飛、或毛或
、或介或鱗」と書いており、後年、清代の王
(おういん)に、「それは『蟲』のことだ」と突っ込まれている(「大漢和辞典」による。
は裸のこと。文意は先に引用した集韻とほぼ同様である)。
また、10世紀の日本で作られた辞書「倭名類聚抄」には、蟲の項に、「唐韻〈筆者注:唐代に成立した辞書〉云わく、虫、蟲と通用す、和名
无之、鱗介の惣名也」とある。
それでも蟲の意味で虫と書くのはあくまで俗字であり、清代の「康煕字典」でも両者を別字として掲げたうえ、「虫を蟲の省文〈筆者注:字画を省略した字体〉とするのは大きな誤りである」と注意している。
しかしながら日本では、戦後の国語改革の一環として当用漢字が制定され、そこで「虫」(チュウ、むし)という字が正式に定められた。キと読む字は無視されてしまったのである。ちなみに、現代中国でもむしは虫と書くが、今も康煕字典の字体を尊重する台湾では、正式には蟲と書く。
ここで、昆虫の名以外で「虫」を含む字を思いつくまま並べてみよう。どう読むか、ヒマな方は調べてください。
爬虫類 蛇、蝮、蜥蜴、蛟
両生類 蛙、蝦蟇、蝌蚪
哺乳類 蝙蝠、蝟
軟体動物 蜆、蝸牛、牡蠣、蛤、浅蜊、蛸
節足動物 蟹、蜘蛛、蠍、蝎、蜈蚣、蝦(蛯は国字)、蝦蛄
その他 蚯蚓、蛞蝓、蛭、蟯虫、蛔虫
人類 南蛮人
無生物 虹、風、蜃気楼、蛋白質、蜀、触、蝋、蜜、蝕、融、蟄、強
気持ちが悪くなってきたのでここらでやめるが、小動物以外を表す字について、なぜ虫が付いているのか、「字統」に沿って簡単に説明しよう。
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「虹」甲骨文(双頭龍) |
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「風」甲骨文(鳳) |
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「辰」甲骨文 |
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「蜀」金文 |
・蛮:旧字は蠻。虫(キ)がつくのは、南方の諸族を蛇種とする観念から。
・虹:虹は空に住む龍の一種と考えられていた。龍も虫(キ)と書かれる場合がある。雄が虹で雌が(ゲイ)。旁はそれぞれの音を表す。図の甲骨文は、双頭の龍が川の水を飲んでいる様子であり、虹の形である。当時、虹は不吉なものとされていた。
・風:もとは鳳と書いた。鳥は風をつかさどる神の使い。それが秦代までに虫(龍を表す)に置き換わった。図の甲骨文の右上は音を表す「凡」、左側が鳥だが、神の使いなので冠をつけている。
・蜃気楼:蜃は大きなハマグリ。蜃気楼は、大ハマグリの放つ「気」によって出現すると考えられていた。辰はハマグリの象形で、のちに意味を表す虫が付けられた。
・蛋白質:蛋は鳥の卵。蛋白質は、卵白に含まれる栄養素の意味(詳しくは「たんぱく質」参照)。蛋がなぜ鳥の卵を意味するのかは不明。〈筆者推測:ひょっとすると、古くは虫(キ)つまりヘビの卵のことを蛋と呼んだのかもしれない。〉
・蜀:オスの獣の形で、虫の部分はなんとペニスだという。独の旧字「獨」の意味で、メスのいないオスのことという。
・触:旧字は「觸」で、オスの獣が角をもって争うことをいう。このことから「触れる」という意味になったという。
・蝋・蜜:虫が生産するものだから。
・蝕:「むしばむ」と読むので、虫が葉などを食べることかと思ったら、「食べ物が腐敗して、虫がわく状態」を言うという。つまり、「腐蝕」の蝕が原義である。
・融:鬲(レキ=釜の一種)の中のものが腐敗して虫を生じている様子から、「融ける」の意味を表す。
・蟄:虫、蛇の類の冬籠り。形声文字。
・強:弘(弓と弦)と虫(カイコ)の会意文字。絹でできた弓弦が強靭であることをいう。
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「蠱」甲骨文 |
ついでに、「蠱」という字についても説明しよう。現代でも、「蠱惑的(こわくてき)」という語でたまに見かける字である。これは甲骨文にあり、下図でわかるとおり、器(皿)の中に2匹または1匹の蛇のようなものがうごめいている。
蠱は、器に多くの「虫(キ)」を入れて共食いさせ、残った一匹が強い呪霊を持つとして、それを使って他人に病害を与える呪儀とされ、卜辞にも、「王の咼(わざわひ)あるは、これ蠱ならざるか」など頻繁に現れるという(字統)。何ともおどろおどろしいことだ。ただし、蟲よりも古い文字なので、のちの蟲とは直接関連がなく、複数の「虫(キ)」を楷書化した結果、上部が蟲と同じ形になったと思われる。
虫があり蟲がある。では、木・森・林があるように、
という字はないのか?実は蟲よりも古く、甲骨文の時代から存在する。現在も、JISにはないがユニコードにはあるのでパソコンで扱える。音は「コン」で、意味は「蟲の総名」とされている(説文解字)が、当時の人々の関心は作物の害虫としての蟲にあり、虫害防除を祈るための神の名ともなっているという(字統)。
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「昆」金文 |
最後に昆虫の「昆」について述べる。字統によると、実はこの字が昆虫(クモなど、昆虫以外の節足動物も含むだろうが)のすがたを表しているという。金文で見て、上が胴体で下が肢であるという。
ただし、この字の意味については、説文解字では「同也」とされ、また「禮記・王制」の鄭玄注(漢代)には「昆は明なり、明蟲は陽を得て生じ、陰を得て
藏る」とあり(「説文解字注」より)、字統の説とは異なる
1)。さらに、中国の古典に現れる熟語でも、「昆蟲」以外には虫関係のものは「昆
」(意味は昆蟲と同じ)しか見当たらない(大漢和辞典及び康煕字典を調査)。熟語では固有名詞(国名、都市名、姓など)に使われる場合が多く、また「仮借」(かしゃ:同音の他の言葉へのあて字)の用法で「兄」の意味でも使われた。コンという音で兄という意味を表す
という字があり、昆はこの字の代わりに使われたのだ。ちなみに「昆布」は中国起源の語であるが、なぜ「昆」が使われているのか不詳である。
この字は、古い時代にその意味が失われ、コンという音を表すために使われることによって、現代まで生き延びたもののようである。
と同音であるので(説文解字「
」字の
項に「読んで昆のごとし」とある)、昆蟲という語に使われているのも、単に仮借によるもの(つまり、「
蟲」と書くべきところが、同音の「昆蟲」に置き換わった)かもしれず、字統の説が正しいとは限らない。
上の金文の図、皆さんには何に見えますか?
注1)(2016.4.1.追記)白川静著「字通」の「昆」の項に、以下の文章があることが分かった。
[夏小正]に「昆小蟲」の語があり、小虫をいう。
夏小正は、夏代の農耕暦であるというが、文献に現れるのは「隋書」経籍志が最初とされる。のちに「大戴礼記」の一編とされ、邦訳もなされている。
夏小正二月の「経」(本文)に確かに「昆小蟲」とあるが、その「伝」(説明)には「昆者衆也」とあり、「昆」は多いという意味だという。続いて、(経の文は)集まった小虫が動くことだと述べ、さらに、動くことを表す昆が小蟲という語より先に置かれている理由を自問自答している。訳者の栗原圭介氏も、「昆小蟲」を「昆は小蟲なり」ではなく「昆として小蟲。」と訳している。
農耕暦という性格から、他の項目は自然界の変化や人がその時期にすべきことなどを列挙しており、「昆小蟲」も、二月になると小さな虫が集まって動き出すという意味にとるのが自然で(ちなみに「啓蟄」は一月の経にある)、この項目だけ「昆」字を定義するような文と取る白川説は適切でないように思われる。 戻る
参考・引用資料
説文解字 後漢・許慎撰、100年:下記「説文解字注」より
説文解字注 清・段玉裁注、1815年:影印本第4次印刷 浙江古籍出版社 2010年
新訂字統 普及版第5刷 白川静著、平凡社 2011年
箋注倭名類聚抄 狩谷斎注、曙社 1931年
康煕字典(内府本) 清、1716年[東京大学東洋文化研究所所蔵]:PDF版 初版 パーソナルメディア 2011年
大漢和辞典 修訂版 諸橋轍次著、大修館書店 1986年
字通 初版第12刷 白川静著、平凡社 2006年
夏小正:大戴礼記(新釈漢文大系113) 初版 栗原圭介著、明治書院 1991年
画像引用元
甲骨文、金文、小篆 漢字古今字資料庫(台湾・中央研究院ウェブサイト)
JIS規格外漢字(明朝体) グリフウィキ(ウェブサイト)